以前InterCommunicationに、本が無くなるかというテーマの座談会が掲載されていた。
当初二人が議論し、途中から桂氏が加わったのだが、
その議論がまったく噛み合っていなくって、面白かった。
おおまかに、二人は「将来は本は無くなるんじゃないか」という話をしており、
途中から議論に加わった桂氏は「いや本は無くならないだろう」と主張する。
その議論がまったく噛み合っていなかったのだが、その喰い違いぶりが面白かった。
なんにせよ、こういう単純な主張を扱う議論では、その場の流れで
安易な結論が出てしまいがちなのだが、「とにかく俺は納得しない」と
頑固に首を振り続ける人がいることがものすごく重要なのだ。
この議論が混乱しているのは、まずは言葉の問題である。
コンピュータの普及によって本が無くなるか? という題目が設定されているのだが、
では本とはなにかということについてのきちんとした定義が成されていない。
コンピュータの普及によって本が無くなるか? そんなの無くなるわけがない。
本はその誕生からすでに何百年もの歴史を持ち、その長年の発展の過程において様々な変異体を生み、
ウィルスのようにあちこちに繁殖し続けている。この本という形態が、
いまだ数十年程度の歴史しか持たないコンピュータと闘って消えてなくなるわけがない。
そんなの当たり前だ。
つまりまずはこの前提は議論にならないのだ。しかし議論の中ではそうではない結論が
安易に出されようとする。なぜそんな間違った結論が安易に出てくるのか。
その論拠を少しづつ見ていくことによって、その無自覚な前提条件が見えてくる。
そのためにまず「本が無くなるか?」という問いを、様々な形にパラフレーズしてみよう。
雑誌が無くなるか? 新聞は無くなるか? 単行本は無くなるか? 文庫本は無くなるか?
百科事典は無くなるか? 図鑑は無くなるか? 辞典は無くなるか? 辞書は無くなるか?
出版社は無くなるか? 新聞社は無くなるか? 取次は無くなるか? 再販制度は無くなるか?
書店が無くなるか? 古本屋が無くなるか?(または古本屋だけになるか?) 図書館が無くなるか?
活字は無くなるか?(すでにもうほとんど無い。) 写植は無くなるか?(DTPだけになるか?)
製版は無くなるか?(オンデマンド印刷だけになるか?) 印刷は無くなるか?(CD-ROMだけになるか?)
CD-ROMは無くなるか?(Webだけになるか?) Webは無くなるか?(P2Pだけになるか?)
編集者はいらなくなるか? 執筆者はいらなくなるか? 執筆を生業とするものは消滅するか?
読者は無くなるか? 読書は無くなるか?
漢字は無くなるか? 日本語は無くなるか? 文字は無くなるか? 言語は無くなるか?
ここにアトランダムに挙げた要素を、一つ一つ見ていくと、
議論において生じた混乱の要因が明らかになっていくだろう。
まず、言語は無くなるか? 無くなるわけがない。
マルチメディアの時代が来て、Visualな表現がより重要になることによって、
文字表現による言語が相対的にその重要性が下がり、
ついには言語は消滅するのではないかとと言われたことがある。
しかしインターネットとWebの普及によって起こったことはその逆である。
いままで以上に文字による表現、言語が重要になった。
文字によって表現されていないものは、検索にひっかからないため、
むしろ存在していないものとさえ、されるようになってしまった。
これはマルチメディアの敗北といってもいい逆転現象である。
本の消滅を扱ったSFには、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」と
スタニスワフ・レムの「浴槽で発見された手記」とがある。
前者は法律によって本が禁じられた世界を書いたもの。firemanという言葉が
火を消すものではなく、火で本を焼きつくすものという意味を持つという世界観。
この本はトリュフォーによって映画化されたのだが、
その中でいわゆるインタラクティブ映画を見ているシーンがでてくる。
インタラクティブ映画とは、映画のシーンが進む途中で「この後どうする?」と
視聴者にストーリーを選ばせるという映画。本が禁じられた世界において、
インタラクティブ作品だけが押しつけられた形で残るというのは、極めて皮肉たっぷりである。
トリュフォーは、いったいなぜこの本を映画化したのか。
そして彼はなぜ、「未知との遭遇」に出演したのか。
後者の「浴槽で発見された手記」は、ある理由で紙が全て消滅してしまい、
あるバスルームで水の中につかっていた一冊の日記だけが発見された、という話。
その日記が水に使っていたのは、つまり読者が自分自身であるということを示している。
だれか他の人に読まれることを想定しない、ただ独白を書き綴っただけの手記が、
結果的に人類を代表する一冊の本となってしまうという逆説。
読書は無くなるか? 読者は無くなるか? こんなの自明の問題だ。無くなるわけがない。
なにかを読みたいと思う人がいれば、読者というのは存在する。
執筆者は無くなるか? 当然だが読者が存在すれば、執筆者は存在する。
ただ、その執筆者が自分自身であり、読者も自分自身だけであるという可能性はあるのだが…。
問題は、執筆を生業とする人が消滅するかどうかである。
今は執筆というのがビジネスの中にとりいれられていることにより、
書くことによって生計を立てるということが可能になっている。
カントが生計を立てたのは大学での教授職によるかもしれないが、
裕福といえる状態になったのは出版によるし、
福沢諭吉が慶應義塾を創設することができたのもの、彼の書物が売れたからである。
もしかしたらそのようなものが消滅してしまうのではないか?
これは大きな問題である。正直、答えはまだない。ずっと無いかもしれない。
もしかしたら単に消滅してしまうだけかもしれない。著作権の消滅と共に。
編集者は無くなるか? 出版社は無くなるか? これは前記の問題とほぼ同じだろう。
情報をというものに、いくら、どのように支払うのか。これは大きな問題だ。
パンドラの箱は、すでに蓋が開いてしまっている。
今から考え初めるのではもう遅いかもしれない。しかし今からでも考えるしかない。
単純に言えば、強制力を持って支払わせるしかないだろう。
つまり税金と同じような仕組みで集金し、貢献度に応じて支払う。
全ての情報産業がこのような形に収斂してしまわざるをえないのではないか。
Winnyの作者、47氏の発言は興味深い。「Freenetの啓蒙」という言い方をしているが、
要するにP2Pはもう後戻りができなくなっている。先に進むしかない。
つまりコピーを技術的に拒否することはもう不可能になってしまった。
しかしどこかでだれかが新しい情報を作らなくては、コピーするべき情報は生まれない。
そのような状況で、新しい情報を作るインセンティブはどのように成されるべきか?
47氏は、一つはっきりしているのは、「前払い」だと言っている。
情報が作られてしまった後ではそのコピーをふせぐ方法は無いのだから、
その情報が作られる前に、その「期待」に対して課金をするという方法しかない。
現実問題としてどのような解に落しこめるかはわからないが、これは卓見である
このような方法に変化せざるをえないのは確実なので、今からこの方向へ進むしかないんじゃないか。
前払いは無茶なんじゃないかという見方もあるが、しかし不可能ではないと思う。
例としてはかなり不適切かもしれないが、MorphyOneというプロジェクトがある。
これはそのハードを作るという計画に、賛同者は、安くない金額を前払いで払った。
結果として起ったことはご存じの通りである。しかしこのプロジェクトが示唆するところは、
現実的に賛同可能であれば、前払いしようとする人はいるということである。
また他に、ある本を書こうとしている人が、本の出版に必要なお金をあらかじめ集め、
そのお金がたまったら出版するという計画をたて、Webで募集をしている。
URLは忘れてしまったのだけど…。
取次は無くなるか? これは無くなってもおかしくはないんじゃないか。
というよりも無くなってほしい。いまでもある種の雑誌は取次を通さずに流通している。
様々な情報流通形態の効率化によって取次の重要性が相対的に低下するのは好ましい変化だと思う。
書店は無くなるか? 古書店、ブックオフのようなところのほうが栄えるのではないか?
この恐怖はもっともだろう。実際そのような動きはある。具体的に大きな問題は万引問題だろう。
最近、NHKの番組でやっていたのだが、書店での万引が増えているという。
そしてその理由がブックオフのような新手の古書店にあることを示唆していた。
高値で売れる新刊ばかりが万引されること、そしてブックオフの店頭に実際にそれが並んでいること
などが紹介されていた。つまり、書店に新刊が並ぶのと同時に万引してきて、
それをすぐにブックオフに売ってしまう。そういう人が増えているのだという。
これはどう考えても買うほうが悪いのだ。ついさっき出たばかりの新刊を、
万引であるかもしれないと思いつつ購入してしまうのは、それは実際単なる犯罪幇助行為である。
古書店の倫理としては、新刊が発売後すぐに持ち込まれたとしても、それを素直に買うべきではない。
しかし実際のところ、新刊を出てすぐに読んで、すぐに売ってしまうという人もいるはずで、
区別するのは難しい。
この問題は、再販制度の問題ともからんでくる。この再販制度によって、
今の日本では、本の安売りというものが認められていない。
ブックオフのような仕組みが流行ってしまうことにはこれが背景にある。
普通の本屋には本を安売りすることが認められていないのが、
どんな新刊だろうと、古書店では安売りすることができる。
つまり普通の書店でも安売りを認めれば、ブックオフのような存在の比重は相対的に下がる。
しかしこの垣根を崩していいものかどうか。これは非常に大きな焦点の一つだろう。
私の考えはどちらかというと保守的で、ブックオフのように比較的新しい本を扱う
古書店は、なんらかの形での規制が成されるべきだと思っている。
音楽CDでは、発売後ある一定期間がたたないとCDレンタルを開始できない。
このため新譜を出てすぐ買いたい人は、CD屋で買い、待てる人はレンタルを
開始するのを待つという関係になっている。同じような関係が、映画の公開と、
ビデオレンタル開始との関係にも言える。これと同じことが、本でもできるはずだ。
つまり新刊発売後、ある一定期間たたないとその本を古書店では売れないようにする。
このようにすれば、新刊ばかりが万引されるという現象は無くなるはずである。
同様のことは図書館にも言える。新刊を大量に購入して貸すという図書館があるらしい。
自分の存在意義を否定してどうするのか。利用者の便宜を図るということらしいが、
みんなが買うような本を図書館が買ってもしょうがない。普通じゃ買わないような本を買って、
それを長期に保有するからこそ、図書館の意味があるのだ。
これも、同じ本は一つの図書館で一冊づつしか買ってはいけないという規制はあってもいいと思う。
印刷は無くなるか? これは、紙という情報形態は無くなるか? とほぼ同義だろう。
無くなるだろうか? 無くならないだろう。これほどまでにコストパフォーマンスに
優れたメディアが、消えてなくなってしまうはずがない。
本とはなにか。このように辿ってきた複数の問題の集合体を指している言葉で
あることは確かだろう。しかし一見関係がありそうでありながら、実際には
関係がない要素がたくさんあることもわかった。では、本の本質とはなにか。
まず、本は紙であることがあげられる。紙になんらかの情報がうえつけられ、
それが集められたものである。そしてそれが束ねられたものである。
つまり、紙が積み重ねられ、片方が閉じられたもの。これが本である。
つまり本の反対語は、巻物(scroll)なのだ。
巻物は一枚の紙にずらっと長く情報が書かれ、それが丸められたものである。
巻物は一覧性が低いことが問題である。
本は、紙が積み重ねられ、片方が閉じられているということが特徴であり、
これが複数の紙を高速に見ることを可能とする。
要するに、パラパラめくってみることができるのだ。
これこそが本の持つ本質的な特徴であり、絶対的なアドバンテージなのだ。
eBookだとか電子ペーパーだとか、いかにもな新技術の名前をあげることはできよう。
しかしそのどれもが、この本だけが持つ絶対的なアドバンテージに勝つことはできない。
つまり「本と同じような速度でパラパラめくってみる」ということができない限り、
本に勝つことは絶対にできないのだ。
つまり、本の将来は安泰である。
例えば小学校に入学した子供に、教科書の代りにその内容が全て入っている
eBook readerを渡すということを考えてみる。なんとなく、その子供がすごく
可哀想に思えてくる。おそらくそれは単に可哀想に思えるだけではなく、
実際に学習効率が低下するのではないか。
つまり例えば本物の紙でできた教科書を与えたグループと、eBookによる教科書とを
与えたグループとを比較し、対照実験を行なえば、実際にeBookによる教科書では
学習効率が低下するという実験結果を導き出すことができると思う。
なぜだろうか。実際に子供には重い教科書を何冊も毎日運ばなくてすむように
なるので楽に違いないし、技術的問題だけならば、書き込みもできるようにするとか、
付箋をつけられるようにするとかはできるはずだ。
おそらくこれこそが前記に出てきた結論の効果なのだと思う。
つまり実際に、紙に書かれた情報のほうが吸収しやすいのだ。
紙に書かれた情報とはそれだけ情報量が多いため、吸収しやすくなっていると言える。
また逆にいえば、情報量に限度がある、ある限界が目に見える形で表われている
ことが重要である。本というのは初めと終りがある一つの形態だ。
本を最初から読み初め、最後まで読み通すという経験を繰り返すことにより、
情報を得ることの効果を理解していく。
逆に例えば、中学に入学した子供に、電子辞書を渡すということを考えてみる。
これは逆に学習効率が上がるのではないだろうか。
この教科書と辞書との違いはどこにあるのか。
辞書とは普通は最初から最後まで読み通すものではない。
その点がまったく違うのではないだろうか。
そもそも辞書というのは重たいもので、毎日持ち歩くのはヘビーである。
しかし本来辞書はどこにでも持ち歩いて、気付いたときにすぐその場で引くべきである。
まず電子辞書だとそれができるというのが利点である。
そして電子辞書であれば、単語間の関連性のリンクを辿るのが容易である。
ある単語から別の単語へと関連性があれば、リンク一つで辿れることが多い。
また、単純な英和辞典だけではなく、thesaurusのような特殊な辞書も
内蔵していれば、情報効率は上がるだろう。
また現時点では仮定の話であるが、エンカルタのような百科事典をも
内蔵しているものもできるかもしれない。その場合の情報吸収効率は
飛躍的に向上するだろう。
なぜこのような違いが生じるのか? おそらく辞書は、前後の関連性がほとんど無いというのが
重要なのではないか。単語はABC順などで並んでいる。つまりある単語とある単語とが
隣合わせになっていることは、たいていは偶然であり、それそのものには情報はない。
musicとmushroomが隣合わせになっていることは単なる偶然であり、そうではない辞書も世の中にはある。
このような情報の場合は、単にその情報が細切れにあたえられることにも意味があるのだ。
情報を吸収する最初の段階では、ひとつながりの情報にはそのつながりに応じた
情報の違いがあるということを認識することが重要だ。
つまり、文章には起承転結というものがあるということ。
一つの文章の中にもあるだろうし、そして一つの本の中にもあるだろう。
そして一年、そして六年という学習の流れの中に、ひとつながりになった
なにか連携するものを発見するだろう。その発見そのものが、まずは重要なのだ。
数を数えることができない人間に、数というものの一般概念を教えることができるか?
コンピュータの中の情報とは、どこまでいっても細切れのものである。
たまたまあるファイルの中でひとつながりになっているということもあるかしれない。
しかしそれはただの偶然である。
情報の連なりそのものも情報であるということをまず認識する必要はある場合には、
コンピュータによる情報提供は逆効果であるだろう。
■レイ・ブラッドベリ「華氏四五一度」ハヤカワ文庫、1979.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150401063/etocom05-22
●●http://www.interq.or.jp/saturn/zen/451.htm
●●http://www.kawade.co.jp/tachiyomi/read/ty_20365.htm
×http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0110.html
Ray Bradbury : Fahrenheit 451 1953
http://homepage1.nifty.com/Tanu/bookworm-j/451.htm 映画化?
http://nagoya.cool.ne.jp/haban/truffaut_book.html
トリュフォー
■スタニスワフ・レム「浴槽で発見された手記」1983.
http://www.asahi-net.or.jp/~ns6h-mr/data91to95.html
「レムの中では最も貴重で入手困難」とのこと。図書館に行けば読めるはず。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=11681