http://www.masuyama.com/credit/
http://www.ntticc.or.jp/Calendar/2001/Credit_Game/index_j.html
これは信用についての展覧会であるのか、信用ゲームについての展覧会であ
るのか、それともお金についての展覧会であるのか、それがもっとも大きな
問題だと感じた。
信用ゲーム展にはいくつかの作品が出品されているが、その中に「信用ゲー
ムα」と「信用ゲームβ」という二つのゲームがある。この二つはこの展覧
会の中でも、展覧会に出品される作品として見ても、非常に特異な位置を占
めている。展示面積は大きく、目立つ位置に置かれているのだが、会場に入っ
てすぐにこのゲームをやってみようという人は少ないんじゃないだろうか。
しかしその作品のタイトルからもわかる通り、この二つのゲームこそがこの
信用ゲーム展というコンセプトが始まった瞬間をあらわしている。この二つ
のゲームを実際にやってみなければ、この展覧会がなにを意図しているもの
なのか、理解できないだろう。
「信用ゲームα」はデイトレーディングをテーマとしている。デイトレーディ
ングでは一日という時間の中で株式を売買し、そこから利益をえることを目
的としている。一般に一日が終るときには株式を売り現金化することによっ
て急激な株価の変動に対処しているというものであるらしい。通常株式の価
格というのは企業活動の価値の変化によってその価格が変わるものだ。しか
し企業活動の価値が、一日というタイムスパンの中で変化することがありう
るだろうか。もちろんありえない。だとすれば一日というスパンの中で株式
の売り買いを行うということは、まさしく価値の変化を売り買いするのでは
なく、変化するかもしれないというお互いの信用の変化そのものを売り買い
する行為なのである。
ここで理解しなければならないのは「空売り」という行為である。「空売り」
というのはとても怪しい響きをもっている。株式を売買するというのがどん
なことをするのかはなんとなく理解できるのだが、「空売り」がどんなこと
をするのだろうか。とりあえず普通の人がすることはできないような気がす
るし、なんとなく違法な取引のような気さえする。インサイダー取引と区別
がつかなかったり。しかし実際のところ、そんなに怪しい取引でも違法なも
のでもない。
簡単に説明すると、まず空売りを支える仕組みは「株式のレンタル」である。
空売りをしようとする人は、A社の株を証券会社から借りてくる。(ここでは
話を簡単にするために、あらかじめ証券会社がその株を持っていたことにす
る。) もちろん借りるためにはレンタルビデオと同じでレンタル料金を払わ
なくてはならない。実際にはレンタル料だけでなく担保も預けなければなら
ない。そしてA社の株を借りてきたら、すぐにその株を売ってしまう。借り
たものを売っちゃったらまずいんじゃないの? いや大丈夫。あとで買い戻す
から。種類と数が同じならいいので、まったく同一の物である必要はないの
だ。株を売ったら現金が手に入る。しばらく時間がたったらそのお金で、ま
たA社の株を同じ数だけ市場で買う。そして証券会社に返却する。
これになんの意味があるのか? この取引を冷静に考えると、取引を開始した
時点でその株式が高値にあって、取引を終える時点、つまり市場から買い戻
す時点で株式が下っていたら、その差額だけお金が儲かるといことがわかる。
つまり例えばある会社の株が下るとわかっているときに空売りを行うと、そ
の株が下ったぶんだけ設かる。通常株式取引というのは株を安く買って、高
くなってから売ることによって差額を儲ける仕組みだ。しかし空売りの場合
はその逆に、株式が下るときに儲けることができるということだ。
この空売りを支える方法として、「株式のレンタル」さえあればできるとい
うことがわかるだろう。逆に言えば「株式のレンタル」という行為が空売り
の本質なのだ。
この株式が下がるときにも儲ける手段が用意されているということは、とて
も重要なことだ。こういった手段が用意されていることが、市場全体の安定
に役立ち、株式市場が過熱したり暴落したりするのを防いでいるのだ。(日
本政府は空売りを規制する法案を考えていたりするらしいのだが、それはまっ
たく株式市場の実像をわかってないってことだ。)
(と書いてみたが、どのような原理で過熱や暴落を抑制するんだっけ。ちょっ
と考えてみたがよくわからなくなってしまった…。)
もちろん現実にはもっと複雑で、空売りの逆もあるし、空売りをするための
現金を証券会社が貸してくれること、そのときの金利が安いことなど、もの
すごくいろいろな種類の細かい制度があることが、全体としてのシステムを
支えている。逆に言えばこういった細かい制度(目に見えない制約も含む)が
現実の経済社会のルールを規定しているということだ。
この議論は、ローレンス・レッシグの「コード」にでてくる議論と近い。
実際の現場レベルでの細かいルールの積み重ねが、全体としての経済社会の
意味を決めてしまうのだ。
「信用ゲームβ」は、簡単に言えば「金持ち父さん貧乏父さん」に出てきた
「キャッシュフロー」というゲームと同じようなものだ。なのであの本を読
んでいれば感蝕はすでにわかっているはずだが、実際にやってみるとかなり
ハマル。
これはやってみないとわからない。やってみてはじめて、取引の感蝕がわかっ
てくる。そのとき始めて投資家とはどのような基準で行動するものなのかが
わかってくる。「金持ち」と「資産家」は違う意味を持っている。それを理
解して初めて、それに対抗する手段を考えられるようになる。「原理」だけ
読んでてもだめってことだ。
etoyという名前はもちろん以前から目にしていた。アルスで受賞してすぐに
Webサイトに目を通したし、アルスでのパフォーマンスもどんなものだか知っ
ていた。なんとなく名前が近いので親近感も昔からあった。なんといっても
私はeToysとの戦闘においてetoy soldierとして戦闘に参加したのであった。
しかしそれでも、いままでずっとetoyがどんなものなのかよくわかっていな
かった。今回そのetoyの実像がよくわかったのは大きな収穫だった。
彼らが売りに出しているものは、全て実際のetoyの株式と連動している。自
らのアート活動を企業活動とイコールなものとして位置付け、その活動は株
式の価値を最大限に高めることを目的としている。そのような活動がなぜアー
トの文脈にのるのか? 平たくいえばヨーゼフ・ボイスの理念と同じである。
ボイスの理念は社会的な活動は全て芸術活動でもあるということ。そのコン
セプトを株式市場を中心とした企業活動にもあてはめること。これがetoyの
コンセプトだ。
そう考えるとこのetoyの展示が非常に信用ゲーム展のテーマに近いことがわ
かるだろう。ある意味、etoyのテーマそのものが信用ゲームなのだ。
以前西村さんと議論したとき、西村さんは「etoyみたいなグループ」という
存在を例に出して議論していたのだが、まったく話はかみあわなかった。西
村さんは「ヨーロッパにはetoyみたいにグループとして活動を続けている例
もあるよね」と議論の中で言うのであるが、どう考えてもetoyが実際に株式
会社として法人格を持っていることを知らないようであった。これは大変奇
妙なことだ。なぜならetoyはその発足時から「アーティスト集団なのに同時
に本当に法人格を持つ株式会社でもあること」を売りにしていたからだった。
株式会社であることが売りのアートグループが、なぜアートグループである
というだけで株式会社ではないと思われてしまうのか。逆説的ではあるが、
etoyが打破しようとしている見えない前提条件が見えてくるのではないか。
あいだだいやの100万円を素材にした作品。透明な樹脂に埋めこまれた一万
円札は奇妙な美しさを持っている。しかし本当に面白い部分は、オークショ
ンの取引におけるQ&Aの記録にある。じっくり読んでみたほうがいい。なん
といってもこのQ&Aの記録こそが作品なのであり、これを読まなければ作品
を体験したことにはならない。
Q&Aに中にはいくつかの重要な論点があるが、おそらく最も重要なものは、
中に入っているお札を再び取り出せるかどうか? という点だろう。「なぜ取
り出せなくしてしまったのか?」という質問に対して作者は「その方が面白
いと思ったから」と答えている。この答えはもちろんまったく正しい。しか
しもし取り出せることになってたとしたらどうなっていただろうと考えるこ
ともまた面白い。
もし100万円が取り出せる状態にあれば、間違いなく落札価格は100万円以上
になるだろう。ではそれよりも価格は上がるのだろうか。上がるとしたらい
くらまで上がるか。もしかしたら133万4千円まで? いやそこまでは上がらな
いだろう。
もし100万円が取り出せる状態にあれば、間違いなく落札価格は100万円以上
になる。その前提条件があるとするとその落札価格から100万円を引いた額
が、その取引におけるプレミアの額になる。つまりそのプレミアの額こそが、
本当の意味での作品の値段なのだ。
その額はいくらになっていたであろうか?
なぜ100万円を取り出せない状態にしたのか。もしそうしたら本当の意味で
の作品の値段がわかってしまうから、ではないだろうか。それこそが100万
円を取り出せない状態にした本当の理由ではないか。
あと、この展覧会の期間中にこの作品が盗まれるという事件が起こると面白
いと思った。なぜならそのとき初めて、結局のところ被害総額はいくらだっ
たのか? という問題が発生するからだ。そのような事件が発生したときに、
初めてこの作品は完成したと言えるのではないだろうか。
http://www.iamas.ac.jp/~daiya00/yahoo/result.htm#q&a
「お金で物は買えるが、物でお金は買えない。」
これが価値形態論の本質である。
西村氏の貨幣とその原材料を交換する作品は、ある意味でこれをテーマにし
た作品である。
このようなことを想像してみよう。まずあなたはICCの会場に行き、500円玉
をその原材料と交換してもらう。原材料をうけとったあなたはその足で東急
ハンズに行き、それとまったく同じ素材を購入し、その素材のコピーを作る。
そしてそのコピーを手に再びICCに行き、そのコピーと500円玉を交換しても
らう。そしてこのプロセスを無限回繰り返す。
このようなことは可能であるか?
500円玉とその原材料とを交換するとはどういうことか?
その原材料と500円玉とを交換するとはどういうことか?
500円玉とその原材料とを交換するとは、500円でその原材料を買うことになるのではないか?
では、その原材料と500円玉とを交換することは、その原材料で500円を買ったことになるのだろうか?